「通奏」低音とは
通奏低音を人に教えるようになって、一体これは何なのか、について自問自答することがあります。
しばしば「通奏低音」と「数字付き低音」は混同されます。ベースラインの上に和声を表す数字が書いてあって、奏者がそれに基づいて即興的に演奏する・・・間違ってはいないのですが、実は現代でもフランスを中心に、和声分析をほぼ同じシステムの数字で書き表すということはされています。「数字付き低音」そのものは、バロック時代の専売特許ではありません。
では、そこから演奏する、というのは一般に言われているように本当に「即興」なのかというと、モーツァルトのオペラの公演で、セッコ・レチタティーヴォをピアニストが伴奏している姿はイメージにぴったりですが、どちらかと言うと、拍節感と無縁に、言葉に注釈を加える形で自由に演奏する、という状況は少数派です。
元々、器楽曲と声楽曲という区分けが西洋音楽にはありませんでした。と言うより、音楽は基本歌のためのもので、それを歌っても、楽器で弾いても良かった。旋律楽器は歌の一つのパートを担うことが出来ますし、オルガンやチェンバロなら複数、あるいは全体をそっくりそのまま弾くことが出来ました。
ここから先は私の想像になりますが、印刷技術が未発達で紙が貴重な時代、フルスコアは必ずしも用意されているとは限らず、多くの場合オルガニストもパート譜で演奏せざるを得ません。当時の音楽家は今よりずっと、耳から聴いた音を覚える能力が発達していたでしょうから、ベースラインしかない楽譜を見ながら、周りで鳴っている全体の音を聴き分けつつ、可能な限りその響きを鍵盤に移し替えた事でしょう。
その際、何らかの形(数字)でメモを取った方が便利だということにだんだん気付いていく。でも、周りで鳴っているのは対位法で精密に書かれた音楽。数字を書いたからと言って急に単純になるものでもありませんから、最低限必要な数字以外は書かれません。
16世紀の終盤になると、”basso per l’organo(オルガン用ベースライン)”という形で、歌のための宗教曲に独立したラインが書かれた楽譜がちらほら見つかります。多くの場合、最も低いパートを繋いだ上で、リズムを若干単純化した感じになっていますが、音楽自体の複雑さから考えると、ただハーモニーを機械的に鳴らしていたとは考え辛い。
この「メモ書き」がメロディーとバスだけのモノディ様式に転用されるようになっても、対位法で鍛えられられた音楽家の耳には、その間に「あるべき」中間パートなり、オブリガートが勝手に聴こえてきたのではなかろうか・・・すると、通奏低音の「通奏」とは、時間的な意味で「ずっと弾きっぱなし」というだけではなく、「音楽の全体を」補完して演奏するという意味を含むという事になります。
そう考えると、本来通奏低音を弾こうとするならば、最も重要な訓練は「数字の読み方/弾き方を学ぶこと」ではなく、「様式を学んで、それで作曲できるようにすること」及び「合奏/合唱のために書かれた曲を独奏できるようリダクションする、即ちスコアリーディングの技術を身につけること」になるのでは、と思うのですが、皆さんはいかが思われますでしょうか?