指揮者なんていらない

指揮者なんていらない

《セヴィリアの理髪師の結婚》が2日間の公演を終了しました。

今回、音楽監督という肩書ではあったけれど、実際の本番中は客席で見守っていただけ。裏棒(舞台裏での指揮)も金魚鉢(大体客席の一番奥の壁の内側にある照明室or音響室のガラス窓からペンライトを使って、客席にばれないように指揮すること)もプロンプターもなし。小ホールでの公演なのでオーケストラはおらず、ピアニストが舞台上の一角で演奏しているその音だけが頼みの綱。

でも、凡百の指揮者のいる公演よりずっと音楽的な完成度は高くなった。それは取りも直さず、個々の出演歌手のレヴェルの高さ故、ではあるのだけれど・・・

藝大の指揮科にいた頃、古楽に少しずつ興味を持ち始め、様々なグループのリハーサルを見学させてもらいに行くようになった。その時、まず驚いたことが、指揮者の役割が根本的にそれまで知っていたものと違ったことだ。

指揮法というやつは、基本的に「テンポと現在何拍目にいるかがはっきり分かる」ためにある。だから、一定のタイミングで一定の図形を描くように棒を振れるのが最低条件である。そのように受験では習った。

それなのに、である。古楽の「指揮者」たちの描く図形は贔屓目に見ても判りづらかったり、テンポの変わり目も正確じゃないことがある。なのに、出て来る演奏はずっと精緻で、創意にも溢れている。何なんだ、これは。

飲み会に混ざって、プレイヤーにそれとなく質問してみると、大体返ってくるのはこんな答え:

「私たちは大体少人数だし、耳を使えば中で合わせられるから、指揮者にはアイディアと方向性を示してもらえればいいんだよね」

その後オペラの世界にどっぷり浸かると、今度は真逆の光景と出会うことになる。職人、と敬意を込めて呼ばれる老練な指揮者は、個性の差はあれ一様に図形は明快で、テンポの変わり目が正確で、舞台上の事故や打ち合わせと違うテンポにも動じることなく、どこかで戻ってこいと言わんばかりに淡々と振り続ける。

逆に、どんなにすらすらと歌を諳んじて、曲のことを知り尽くしているように見えた指揮者が、指揮法の欠如からオーケストラを前にして、為す術もなく沈んでいく現場もたくさん見た。

一流の指揮者は両方できるーーそうまとめてしまえば簡単なのだけれど、実はどんな現場でも、理想の状態はそう変わらない。指揮者が要らなくなることだ。

・アンサンブルが正確であること
・一貫して説得力のあるテンポが守られること
・強弱のバランスがとれていること
・音楽的な創意工夫にあふれていること

これらは、全部演奏者が自分でできるはずのことだ。はずなのだけど、人数が増え、リハーサルの時間も短くなって、曲が長くなり、オペラなら演出が難しくなると、実際問題自力でやるのが辛い。それが「見える」形で目の前にあることで、色々なことが楽になる。

でも、楽になるのと依存するのは紙一重だ。振られた通りにしか弾かないプレイヤー、キューが出なければ歌わない歌手。注意されなければ表情記号もフレージングも音量指示も全部見えてないかのように演奏して、怒りも嘆きも恋患いも全部同じ声色だったら、それは何だろう?

今回の《セヴィ婚》は最初から指揮者は置かない、という所からスタートしている。ならば僕の仕事は、上に書いたような理想の状態を、舞台上にいる歌手とピアニストだけで作るにはどうすればいいか考える事だった。

結論から言えば、理想の状態が何か、という共通了解は、一定のレヴェルの人が集まれば自然と生まれているので、それ以外のもっと楽で無難な選択肢をとにかく潰していった。「今のでもいいけど、もっとできるよね」「大変だけど、やればできるよね」「難しいけど、できたらすごいよね」と言い続ける。褒めながら追い込み続ける、みたいなスタンス。

昨日今日と客席で確認したその結果は、やはり、指揮者は必要悪で、いなくて済むならその方が健康的だ、という考えを証明するに足るものだったと思う。もちろん、そのためには選りすぐりの精鋭が集まらなければならないのだけど、指揮者がいなくなったが故に、本当に芝居らしい芝居をするための制約がオペラ歌手から取っ払われた、その事が僕には嬉しかった。

なお、この《セヴィリアの理髪師の結婚》は、日本中に数多とある小中のコンサートホールで、特別な大道具なしに上演できるように作られています。コンテンツ不足に悩む全国のプロデューサーの皆さん!本当のプロにしか出来ない、一粒で二度美味しい《セヴィ婚》を、どうぞ取り上げて頂けることを心より願っています。