加耒徹CD評

加耒徹CD評

二期会《ナクソス島のアリアドネ》でハルレキン役出演の加耒徹さんから、資料としてCDを頂きました。2012年と2015年録音の2枚です。

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上のデビュー盤は、R.シュトラウス、日本歌曲、オペラアリアにイギリスのR.クィルターまで、幅広い選曲。一方2枚目はドイツ歌曲(リート)に的を絞り、ベートーヴェンからシューベルト、R.シュトラウスの初期作品を経てヴォルフと、一本芯の通った流れ。

昨年の《ジューリオ・チェーザレ》で初めてお会いして以来、ルックスの端正さ/華奢さを良い意味で裏切る、骨太な声と理智的な歌い回しのギャップが面白いなと思っていたのだが、この2枚の録音を聴き比べると、3年という時間が人を深めるのだな、と大変興味深い。

2012年の録音だけを聴くと、月並みに「若さ」とか「勢い」とか「美声」という言葉が当てはまってしまうのは否めない。どうしても高音は張ってしまうし、ビブラートも恐らく生理的に気持ち良い所でかかり過ぎている。唯一現在の片鱗が垣間見えるのは、ボーナス・トラックのコープランド《私は猫を買った》の小気味よさ。

話が少し逸れるようだが、オペラにおいて演技と歌唱は、同じ言葉という親から生まれた兄妹のようなもので、近親憎悪を乗り越えなければ仲良くやっていくのが難しいのだけど、近親相姦になってしまっては元も子もない、というような類の関係だと思っている。身体性のもたらす快楽に身を委ねるのは容易いが、かと言ってバラバラに切り離したら元も子もない。

2枚目のCDの何が違うかというと、歌い「たい」ように歌う(sing as I want to)のではなく、歌う「べき」ように歌う(sing as I have to)ようになっているという事。ここぞという高音はしっかり決め、トーンを抑えるべき所は抑え、美しいハーモニーには澄んだ声を配しつつ、デモーニッシュな内容はゴリゴリと語る。

そんなの、当たり前だって?

聴き手にとって当たり前のことを出来る演奏家って、そんなに多くない。なぜなら、それこそ身体性のもたらす快楽をギリギリまで削る作業を伴うから。

3枚目、4枚目とアルバムを積み重ねる毎に、その当たり前がどんどん濃くなって行く事を願ってやまない。そして、歌い過ぎに気をつけて長く活躍して欲しいと思う。