演劇をするってどういうこと?

演劇をするってどういうこと?

《ばらの騎士》は、ダブルキャスト双方の初日が明け、今日は中休み。

公演後に、指揮・演出・舞台のゲストたちを労う会での一枚:

ジョーンズ氏(右側奥から2人目)は少しシャイですがチャーミングな方で、辛抱強くコンセプトを舞台全体に浸透させる作業を続けてくれました。公演の評価は観客の皆様に委ねられるものですが、日本人のみのプロダクション、殆どが初役という中で、出演者の多くが10年後、20年後に繋がる経験を積むことが出来た時間を過ごした日々でした。

さて、稽古の間には演出サイドと歌手の間でピリピリしたムードになる場面も有り、またダブルキャストの双方で印象のかなり違う舞台になっています。これは一体何が問題となっている/いたのか。

オペラの台本に2通りのタイプがあると仮に考えましょう。1つはアリアや重唱の歌詞が筋の進行ではなく歌う人物の心情を吐露する内容のため、芝居の「外側の」聴衆に直接語りかける時間が生まれるもの。もう1つは、劇中の時間が一貫して流れ続け、舞台の「内側で」全てが完結するもの。

この区分は、そのまま演出のスタイルに対しても適用できます。即ち、オペラには「聴衆」が存在するので、歌手はそちらに向かって歌うのが基本であるという考え方が1つ。この場合、舞台上の空間は観客側に向かって集まり、歪みます。後ろや真横にいる相手に歌う場合でも、手の身振りなどでそちらに「かけた」上で、可能な限り前を向いて歌い、音響的に不利になる舞台の奥にはなるべく行かないよう配慮がなされます。

これは音楽を優先する意味では当然理に適っていますし、指揮者とのコンタクトも容易ですが、舞台前面中央に焦点ができてしまうので、ややもすれば歌謡ショー状態になってしまう危険をはらみます。とは言え、出来事の乏しい台本を持ち、歌のクオリティに公演の成功が全面的に依存するような作品では、それで良いのかも知れません。

では、今回の《ばらの騎士》のように、初めから終わりまで事件の連続のような台本に適した演出は何なのか。舞台内を一つの閉じた世界として設計し、空間の前後左右も見たままの方向性を保つことによって、聴衆は「観客」へと変わると同時に、歌手は「役者」になる事を余儀なくされます。より写実的に、誰に向かってどの位の距離で、どういう語調で喋っているのかという事を、演技と歌唱の両方に正確に反映させる必要が出てくるからです。

更に、舞台内で完結するという事は、指揮者を見ていることを観客に悟られてはいけない、という難しい問題に直面します。劇場には、観客には見えない場所に指揮者を映したモニターが多数設置されて、主に横を向いて歌う場合それらを当てにするのですが、照明の強さによってはそれすら目視が難しく、自分の耳以外の何も頼れない状況に陥ります。

ジョーンズ氏の演出はまさしくこの後者に属するもので、特に観客から90度真横を向いた状態で向き合って演じる時間がしばしばあります。足の向きを斜めにするだけでダメが出ることもありましたし、ドアの向こう側に歌う時にはちゃんとその中に身体を突っ込んで舞台裏に歌うことを要求します。

問題は、やるなら徹底的にやらないとこのタイプの演出は興ざめしてしまうという事です。ある場所で音楽的に指揮者とのコンタクトを優先して、写実性を犠牲にしてしまうと、他の部分に対してものすごく目立つ。観客は急に内部完結していたはずの空間から「素に返った」歌手を見ることになり、全体の世界観が乱れてしまう。

世界観、という事で更に付け加える意味で、次のリンクをお読み頂きたいと思います:

演劇をするってどういうこと?

フランスの演劇学校で勉強中の友人のブログなのですが、中ほどに大変興味深い部分があります:

(…)演出家との付き合いにおいては、ひたすらに「自我を消していくこと」だなと思った。
「自我を消す」というのは必ずしも「憑依する」という意味でなくて。
このことを表現するにあたっては、フランス語ではêtre disponibleという言葉がしっくりする。
日常生活ではよく「時間があること。予定が空いていること」の意味で使うこの言葉。
これは演劇に限らず精神的なことにも言えて、「いつでも動ける状態にいる」という感じに訳せるだろうか。
そうあるためには、身体はいつでもそこにいて指示された方向に動ける必要があるし、脳みそは出された指示にあまり疑問を感じずに反応できる必要がある。

一つの世界観を貫徹させるために演出家がいる、という場合、演者に必要な姿勢を端的に言い得て妙だと思い引用しました。

そして、演劇出身の演出家が増えてきた現在、オペラ現場で必要な姿勢もこの方向ではないかと思います。なので、私は全ての歌手に言いたい。指揮者の棒なんて見るな、自分の耳を信じろ、と。そして全ての指揮者に言いたい。歌手を従えようとするな、オーケストラを歌に寄り添わせろ、と。

ヴァイグレ氏は、それが出来る忍耐力と包容力のある素晴らしいマエストロでした。彼はジョーンズ氏だけでなく、ヴィリー・デッカーやロバート・カーセンといった超大物の演出家たちから、しばしば指名を受けるそうですが、こうした演出を理解して柔軟に対応する事のできる指揮者は決して多くないのでしょう。

あと2日、多くの「観客」の皆様をお迎えしたいと思います。どうぞお楽しみに。