前回の記事でも書きましたが、6月後半より東京二期会の《ばらの騎士》の立ち稽古が連日続いています。
この公演は、イギリスの夏の音楽祭として大変有名なグラインドボーン音楽祭との提携で、2009年新国立劇場上演の《ムツェンスク郡のマクベス夫人》を手掛けた、リチャード・ジョーンズという演出家によるプロダクションです。
どちらの演出もそうなのですが、音楽や歌詞に対してほとんど「振付」の次元まで細かく指定された演技のタイミング、マスゲーム的に表現される群衆の描き方、シニカルなジョーク、過度のロマンティシズムの排除、幾何学的な空間の切り出し方、色彩の鮮やかさなど、多くの特徴があります。
音楽家である私が演出の話ばかりするのも妙かもしれませんが、このオペラの音楽の美しさや、台本の素晴らしさなどは、いくらでもそれを褒め称える文章がWebに溢れていると思いますので、私ごときがまたそれを繰り返す必要はないでしょう。
一方で、日本においてはオペラの演出というものが、不当に低い地位として扱われていると常々思います。無い方がマシだとか、コンサートの方が音楽を純粋に楽しめるとか、美しいものを醜くしているとか、そういう批判の裏には、コンセプトより写実性を好む現代日本の傾向も見えますが、歌詞通り/ト書き通りに作品を解釈することから抜け出ようとしない歌手、教育機関における演劇トレーニングの不足、演技上の必然性を理解せず前を向いて歌うことを要求する指揮者など、作り手側の問題の方が遥かに大きい。
でもクラシック音楽/オペラファンの絶対数が減っている中で、「これまでのお客様が喜ぶ」ものを作り続けていたら必ず衰退する。もっと大きなくくりで、商業演劇やミュージカル、歌舞伎を見ている客層に「たまにはオペラも良いね」と言わせるには、とにかく今足りないのは歌の力ではなくて、演技力だと私は思っています。
今週来日のジョーンズ氏が、そんな私たちにどのように喝を入れてくれるか、楽しみでなりません。