太田真博監督

太田真博監督

中高の同期に、映画監督になった男がいます。

松田真子(太田真博×松下倖子)

自主映画の監督として10年ほど前から活動を始め、私が2011年に日本に戻ってきた直後、かつての恩師の一人から、この学年には指揮者やら映画監督やらが出て面白いね、と聞かされ、学生時代はほとんど交流はなかったものの、いずれ会ってみたいなと思っていたのですが、

彼は捕まりました。ググれば出てくることなので、経緯についてはここでは書きませんが、同期の間ではせっかくの才能が勿体無い、バカヤロウとそこかしこで話題になっていたのを覚えています。

それから数年して、風のうわさで彼が娑婆に戻ってきて、ひっそりと活動を再開したという事で、またその内会うこともあるかも知れないな、と思っていたら、去年上記予告編の作品で賞を獲ったのでした。

その頃私もオペラのコンペに通り、なんとなく今がタイミングかな、という気がして、18歳以来の再会、そしてほとんどまともに会話を交わすのは初めて、という不思議なキャッチアップを先日果たしたのです。

僕の覚えている男は学ランをズルズルに履き茶色のロン毛で、120%文化系の僕からすれば近寄りがたい(そして相手も僕に興味は全く無かったであろう)雰囲気だったのですが、現れたのは、すごく腰の低い、でも映画と演劇の話になると少年のように楽しそうに話し続ける無邪気な少年です。

この『園田という種目』という作品で「逮捕された自主映画の監督、園田」はもちろん彼自身がモデルです。しかし園田は彼の友人、そして社会復帰後の職場の同僚達の会話を通してしか登場せず、一度も姿は表しません(まるで『影のない女』のカイコバートのように、「不在の中心」として存在する)。

どこにでもいる小市民が、居心地の悪い隣人を巡り、本人不在の間に酒の力を借りて始める欠席裁判。気になる異性を巡って腹の探り合いを続けていた女子同士が、彼の不都合な過去を知った途端、自分の手は汚さないよう細心の注意を払いながら、掌をくるりと返す。それら「どこにでもある卑怯さ」は、おそらく彼がその身で受けた罰そのものなのでしょう。

でも、この作品にはその事への怒りとか、糾弾めいた脚色は微塵もなく、「そういうものだよ」という穏やかな客観性が全体を貫いている。園田の周りの人は勝手に幸せになったり、不幸になったりしている。それは彼の「おかげ」でも「せい」でもない。だって、皆幸せになりたいんだもの。

来月、彼のこれまでの作品を一挙上映するというイベントが有ります。

太田真博監督大特集2017秋!~ 新作含む一挙上映!

友人として、そして彼の映画に感銘を受けた一観客として、ご紹介させて頂きます。多くの方に観て頂きたいと思います。