良い声、すごい声

良い声、すごい声

新国立劇場《神々の黄昏》、昨日今シーズンオープニング公演が幕を開きました。

私は舞台裏で鳴らされるホルンの指揮を担当していますが、袖から中で歌う歌手たちの様子を観察することの出来る、ある意味特等席です。

(今回の公演ではありませんが、だいたいこんな感じです。)

さて、今回の公演の目玉の一人が、メゾのヴァルトラウト・マイアーです。1幕3場というワンシーンだけに登場する役ですが、別格感がすごい。ワーグナーの「聖地」バイロイト音楽祭の常連歌手が何人もいるので、もちろん皆すごい声なのですが、彼女一人、明らかに違う。

オペラ歌手にとって、「良い声」というのは何なのでしょうか。

スポーツ選手にとって早く走れることは、ほとんどの競技でほぼ不可欠なスキルの一つでしょう。板前の包丁さばき、あるいは食材の鮮度、さもなくば画家にとってのデッサン力・・・どんな職業でも、これがないと話にならない、という基本的な能力というのがありますね。だから、

オペラ歌手にとって、「良い声」というのはスタートであってゴールではない。

もちろん、鍛え上げられた筋肉は美しいものです。それ自体を競う競技もあります。肌の白いは七難隠すとも申しますし、耳元で囁かれた声色一つで恋に落ちることもありましょう。でも、

オペラ歌手にとって、「良い声」というのは手段であって目的ではない。

マイアーの別格感は、彼女の歌と歌われているものとの一致度の高さです。台詞の一つ一つが、その時々の状況の中でどう発せられるべきかという、演劇における基本的な所が、歌うことによって犠牲にならず、むしろ増幅され、より鮮明になっているという事です。

その時、具体的に違うのは「子音」です。私の個人的な印象では、多くのオペラ歌手が、子音を「良い声に張り付いている邪魔な何か」みたいに扱っているように感じます。なるべく母音を長く、良い声で歌え。子音を立てろ?まぁそうかも知れないがレガートを切るんじゃないぞ。レッスンでそんな指導をする先生方も無数に見てきました。

オペラ歌手にとって、「子音」こそが魂である。

考えて下さい。2000人のホールを飽和させる肉声はそれはすごいものです。でも、それ自体として2時間も3時間もそれを聴きたいと思いますか?意味のない叫びを。それは「言葉」でなければなりません。「言葉」の肝は子音です。母音じゃありません。地球上のあらゆる言葉で、子音は母音より種類が多く、それこそが言語の違いを作り出しているのです。

例えば「kiss」という言葉の頭の”k”をどんな強さで、そこに息の音をどの位混ぜるのか。語尾の”ss”の長さをどの位にすれば、自分の望む口づけの形が相手に見えるのか。台詞だったらこうやって考えるだろうに、歌うとなぜ”i”の響きが暗いか明るいか、という議論しかしなくなってしまうのでしょうか。

オペラ歌手にとって、「良い声」は呪縛である。

聴こえないほど小さい声、というのは困ります。でも、美声の持ち主でなくても、存在感は作れる。なぜならオペラは演劇だから。

これからオペラ歌手を目指す人たちは、自分の声の適性と限界を学生の時からきちんと見つめて、自分の容姿と声質に適した役を選び、演技と言葉の勉強に20代のうちに打ち込んで欲しいと、願ってやみません。